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十年一日というべきなのかなんともはや

私のブログの検索ワードに「装甲騎兵ボトムズ 新作」という単語が頻発します。

ボトムズの新作を渇望する動きが「まだあるのか」と半ば呆れかえっています。

誤解して欲しくないのですが、私はいまだに“1983年にテレビで放送された”装甲騎兵ボトムズは好いています。
そして1985年~2007年ころまでに発信された“キリコ・キュービィを主人公とした”「ボトムズの新作」も好意的に受け入れてきました。「続編」ではなく「新作」と表記しているのは、テレビシリーズの派生作品がテレビシリーズ以前の世界に言及することが多いからです。

繰り返しになしますが「好意的に“見て来ました”」。そのうえで 私なりの見解を過日示したのですが、もう「キリコの登場するボトムズ」の新作を期待するには無理がある、ということを重ねて申し上げたいのです。
物語には終わりがあります。生身の人間の世界にも…人生にも終わりがありますが、ドラマその他の映像コンテンツでも小説でも「終わりどころ」を誤ると それ以前に構築してきた世界観が崩壊してしまいます。

キリコ・キュービィの立ち位置を変えてしまったのは…いつの、どの辺だったのでしょうか…

恐らく「野望のルーツ」あたり。この辺はかつてのお客様である石川県のおばさんの主張と同じです。

種々のサイトを見ると(「異能者」とは扱いが異なるようですが)平易な表現をしてしまうと人間の容姿をしているが死ぬことがありえない乃至ありそうもない超人レベルの生き物である、異能生存体という存在にキリコをプロットしてしまったことで、物語の面白さが半減してしまったことは否めないと思います。
私が鈍感だったのか、寛容過ぎたのかもしれませんが「こいつは死ぬわけがない」と保証されている「ありふれた兵士」の一挙手一投足にハラハラしていたことになります。
フィアナを巡ってカン・ユーとスコールの中で肉弾戦を演じたキリコの姿を手に汗握って見守った高校時代の自分。イプシロンという高慢かつ高スキルの敵に苦戦する姿を必死に応援してきた自分…

吸血部隊、レッドショルダーの過去を描写した作品ということで色眼鏡がかかっていたのでしょうが「主人公補正」レベルでない、設定上「死ぬわけがない、殺しようがない 無敵の兵士」としてキリコの立ち位置がスライドしていたことにもっと早く懸念を抱いて然るべきだったのかもしれません。

そんな設定であるが故にキリコは「殺しようもなく、殺されようもなく」、プラモデルを売ってみたい、作ってみたいというメカフェチ属性の発信者・受信者双方から断続的に「弄られる」運命(さだめ)を負ったまま33年目の春を迎えようとしています。

誤解しないで頂きたいのですが、郷田ほづみさんを慕っている私の気持ちに変化・偽りはありません。

でも、郷田さんの収入になるとしても 今後ボトムズの新作が…ATが疾駆し、ハードボイルド調のモノローグを発信する主人公が求められる世界で新しい「ロボットアニメ」が作られても、キリコの再登場はご遠慮したいのです。

気にすれば気になるもの。

「装甲騎兵ボトムズ」でググってみてください。上位にヒットする画像…そのほとんどはATの(アニメ絵ではなく)模型ばかり。

30年以上を隔てて やはりボトムズとはAT(の模型(笑))なのかと 嫌気がさしても来ています。
キリコとフィアナ(別にテイタニアをディスるつもりはありません)の物語としてのボトムズの伸び代はもう期待できないというのに なにが新作なのでしょうか…

拙稿を書いたのは 別にボトムズをこき下ろすためではなかった。もう一つの「うんざり」に遭遇したから。
その「うんざり」とは「六神合体ゴッドマーズ」。ゴッドマーズについて書きたくて本稿は起稿しました。気づけばボトムズと郷田さんの話題でスペースを“割いて”しまいました。

深呼吸して、稿を改めて愚見を披歴します。

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